チキンジョージ40周年記念INTERVIEW-4

天野SHO×児島勝(チキンジョージ)
聞き手Fancy Koh(THE TANPENS)

(S)=天野SHO (勝)=児島勝

(チャ)「思い出?」

――チャーリーさんからお聞きしたんですけど、神戸のブルースロックをひっぱってきたのは(チャーリー)コーセーさんと、(天野)SHOさんだと

(S)「SHOというか、エディ、ブーケン&ショー(註1)っというやんちゃなトリオバンドがいたんです。それに、そのチャーリー、よってもらったり、大村憲司ってなくなった大村憲司さん、それと憲司のそれこそ一番弟子だった是方ってこの前ここでやったんやけど、がみんなよってきたりとかね。70年代ですね。60年代はねポートジュビリーという、違うもうちょっと、一世代上の人がね、(今)70代後半のひとがやってたんやけど、僕らんときはちょうど、1970年くらいから10年間「ロックイン六甲」って、そこにみんなが集まってたんです」

――僕ら小説とかで「村八分」さんとかといっしょにやってるシーンとかがあって、例えば中島らもの小説に出てくる。

(S)「らもちゃんも出たねえ」

――なので、僕としては今伝説の人に出会ってる感じがして、とても感激して緊張しているんです。

(S)「そうかもしれませんねえ。緊張せんとってください」笑

――チキンジョージさんとは、EBS時代からですか?

(S)「もっと後です」

――あとですか?

(S)「だってEBSは1971年からやから、ここが開いたのが80年。でそのときからもう出たり入ったりしてた。だってまだ若かったもん」

(勝)「ぼく10代で」

――何時もお聞きしてるんですけど、最初に出会ったときの印象みたいな

(S)「いや、だって最初はチキンの勝やったし、チキンの進やったし。ねえ、みんなやっぱ僕らはここで育ったと思ってるからねえ。それまでなかったもん。『月光』とか『宝石』とか、『富士』とか、ダンスホールはあったけど、そこでライブをするんですよね。神戸では」

(勝)「サウンドハウスはありましたよね」

(S)「あります。あります。だからそういうところで(ライブをする)。だから本当に、ライブハウスという形で出来たんは、チキンやと思う」

――ジャズバーみたいなのは

(S)「あっちこっちにあった」

――だけど、いわゆる「ライブハウス」っていうのが

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(S)「ううん、ライブハウスっていうのは、ここやねえ。 それでみんな一生懸命やったじゃないですか。ちゃんと、チキンで出れるから。だからやっぱりステータスはあったよ。 80年やから、さっき言ってた70年の「ロックイン六甲」っていうのは神戸大学の講堂でやって、それこそ大村憲司とか僕とか、チャーリーとかみんな集まってやってたの、十年間やってやり切った後、チキンが開いてくれたから。 最初の1年2年は僕らもほっとしてたからさ、違うとこ行ったり、呼ばれるがままに行ったりとかね。特にチャーリーと俺は、ねえもう50年いっしょにやってるからね。あっちこちに行きましたね。でもやっぱり、ここはノックせなあかんやろし。もうお兄ちゃんやったからさ、ものすごく気を使ってくれて。だから、わがままさせてもらいましたね。ええ意味でね。音の意味で。だからそれはもう、ほんとうに、感謝、感謝。僕はもうチキンに育てられたと思っているから。

もう、ねえ(照明ブース奥のポスターを見て)あそこにいった連中ばっかりが、大村憲司はじめ、島田(註2)もやっとたし、桑名(註3)もそうやし、浅野ちゃんも、みんなそやし。ここでええ音出して、音のつながりで、神戸ってちょっと雰囲気違うよね。東京に対しての横浜みたいなもんでさ。4人にひとり、5人にひとりは外人やったからね。だから、「ハーイ」っていう言葉が通じる町やからね。それがキザでもなんでもなく、「ハーイ」って言えるやん。それがやっぱ音に表れてると思う。

 京都の人は、ええ意味で、シカゴ以外はブルースやないって、かたくななものが、あの盆地のなかで育ってるけど、神戸ってものすごいアバンギャルドやん。船が入るたびに音が入ってくるんやからさ。それはねえ、メチャクチャ面白かったと思うよ。いろんな人がここのステージで育ったと思う。

地震で崩れたときは、一番に涙したなあ。やっぱし。僕ら、やっぱり、世話にもなっとうし、神戸の人ってそうやんか。神戸からなぜか、なぜ神戸からでないですか?っていや、神戸が面白いっていう。京都も好きやし、大阪も好きやし、奈良も好きやけど、神戸がええやんというところで、勝もがんばっとるし、進もがんばっとるし。なんぼ面白いか、ここ。うん。でもやっぱり存続するためにはちゃんと、お客さん入れて、ちゃんとしたルールを決めて、ねえ、存続するためにすごく頑張ってると思うわ。

だからそれで、俺たちがなにができるかって、「音」で協力。それかなあ。そりゃあもう。返しても返しても返されんくらい、世話になっとうと思う。そりゃあみんなやと思うで。うん。僕はこうやって言うタイプやけど、言わへん人はいっぱいおるわ。でもみんなそれを感じてるはず。うん。だからみんな(チキンジョージ40周年を)喜んでるね。だからあのレンガ、どんどん増えてっているやん。うれしい。うれしい。そのうちあれが、(壁一面)埋まるんやろなあ。

まだまだ育っていくと思う。僕らの子供、孫みたいなのが段々段々、楽器を持って、チキンジョージに出るというのがステータスで、そりゃ、あっちこっちにもライブハウスはあるけどさ、みんなここから。ここをまねようとは思わないけれど、ここを目指して、いや、ここを越して、で、この三兄弟は「どうぞ越してください」ってこれがええ音の根源やろなあ。だから、言うことない、もう。あとはみな、お客さんに恵まれて、コロナもこわがらんと、それやと思うな。みんなそうやと思うよ」

(勝)「SHOさんのお弟子さんも、もうだいぶ出てくれて」

――例えば?

(勝・S)「もういろんな」

(S)「ただ言うなと。天野塾っていう塾をやっているんやけど、それがどうしたっていう話やから。自分の名前で先行きなさい」

――なるほど

(S)「そりゃそうやろう。僕の七光りやそんなじゃなくて、自分の光を前に出しなさい。音楽家ってさ、おんなじ人が2人おったら面白ない。今日でも3人とも色が違うから面白い。昔はね、みな一生懸命がんばろうぜ、って、朝から晩まで練習して、それは間違いではないと思う。今のこんだけ放射線状に情報が入ってくるのに、絶対ずば抜けて早いやつ。ずばぬけてゆっくりしてるやつ、のんびりしとうやつ。めぐり合う場所ってここやろ。ここで音だせへんかったら、どこで出してるの。カラオケボックスでひとりでやったとして、それはただのマスターベーション。それが悪いとは言ってないよ。もっと来なさい。もっと来なさい。チキンジョージの音を浴びなさい。というのが、僕らかな。
いや、それにしたらSHOさん(チャージが)高いやん。それはまた別の話や。17・8(歳)のチャージと、僕らいくつや思てんのん?と。古希の人が、そんな17・8と同じ値段では、ここのお店にも失礼やし、くるお客さんにも失礼やし、それで来られん人は頑張んなさい。来れるように頑張んなさい。ええ意味でね。そんなやと思うな。神戸の人って。 みんな、仲ええで」

(勝)「ほんまですねえ」

(S)「むっちゃくちゃ仲ええと思う」

――インタビューはじめて、そう思います。みなチキンジョージで一致団結ということではないのかもしれないですけど

(S)「旗はここやわ。うん。大きな旗がここに振ってんねんやわ。1年に1回来ただけでも、『ぼく、チキンの知り合いやねん』(って言える)それがステータス。僕はそう思う。で、頑張んなさい。チキン出たことないなら、頑張んなさい。他も出なさい。でもチキンの音、ええよ」

――今回こういうインタビューをはじめて、僕らの雑誌(TANPENS)は全国に作家(小説家)がいて、音楽に関しては門外漢なんですが、ネットワークにチキンジョージのインタビュー始めました、と伝えると、北海道でも、東京でも横浜でも、どこでも、『チキンジョージ、すげえ』ってなって

(S)「そうだよね」

――ロックというか、音楽の、濃厚なエポックメーキングな場所という認識があって

(S)「だってプロレスすんねんで、ここで。なあ」

(勝)

(S)「プロレスはするし、三線はするし、僕は前ゲスト読んだときは、八の宝って八宝グループいうて、なんやった、十八弦琴とかさ。だから(ジャンルを問わず)音を出す環境としてはここは最高やな。で、ここに降りてきて(地下1階に)またよくなったと思う。だってそこおるんやで魂が(チキンジョージの壁にあるポスターを眺めて)、みんな、おんねん。音が悪いわけがない。そうそう、もうあとは元気で。うまい酒飲んで。ええ感じで年取って。音の年を取って。みんな若いよなぁ。音浴びてる人って。そんで素直やん。子供のままやし。とりあえずここは宝物やね」

――勝さんからSHOさんになにか

(勝)「なにもないよ。それは(趣旨が)おかしいって。(一同笑い)でも、そうやな。僕らSHOさんはあこがれからはじまって、一緒に仕事できるようになって」

(S)「ほんま、うれしい、うれしい」

(勝)「チャーリーさんにも言われたけど、子供がライブハウスをやってる、みたいな延長で。なんにも変わりがないですもんね」

(S)「ほんで、ぼくら要するに、幼馴染が、一番最初にチキンジョージに楽器を売ったりとかね」

――最後にこれからのチキンジョージにコメントを

(S)「コメントというか、とりあえず3人、元気で。好きな酒をどんどん飲みながら、倒れんと。俺はこのまえちょっと倒れてしもうたけど。もうほんまに。なんで俺やねんって思ったわ。生まれて初めて救急車乗ったわ。なにかあったら、僕らは、ねえ、片肌というか両肌脱いで、ここへ助けに来れると思うから。あとは若い子たちがね、僕らはいつでもできるやん。いつでもできるいうたら変やけど。もうここまで音やってきたらさ。『あとはSHOさん、若い子らにまかせて』『そうやな、かまへんで』って、そんなふうに言えるためにもここは存続してもらわなあかん。みんな。若いけど、育っていくから。次も育てなあかんし。それやね。みんなに来てもらって音を浴びてもらって。で、コックさんもきちんとしるし。料理もちゃんと出るし。みんな食べに来たらいいねん。飲みに来たらええ。ほんで、音を聞いたらええねん。それがこの町やと思う。小さいところで聞くのもいいけど、ここで音を浴びてごらんと。なあ、だからいつまでも元気でいてほしい。貸しも借りもいっぱい作ってね。ちょっとずつ返しあい。返してもらい。それがいいと思う」

――ありがとうございました

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註1:エディ、ブーケン&ショー:EBS。70年代の伝説のバンド
註2:島田:島田和夫(憂歌団ドラマー)
註3:桑名:桑名正博

インタビュー収録:2020年11月29日(日)