チキンジョージ40周年記念INTERVIEW-3

チャーリー・コーセー×児島勝(チキンジョージ)
聞き手 Fancy Koh(THE TANPENS)

2020.11.22.「Charlie Kosei 's Happy Koki Live 70」開演前

(チャ)=チャーリー・コーセー (勝)=児島勝

―― チキンジョージ40周年ということで、なにかチキンジョージでの思い出をお伺いしたいのですが?

(チャ)「思い出?」

(勝)「思い出?」

(チャ)「思い出いうてもようさんあるなあ。ありすぎて」

――ですよね

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(チャ)「今となったら憲司(註1)とか、亡くなった石田長生(註2)もそうだけど、最初のチキンで演奏してて。憲司なんか高校のときから友達やから、ずっとやってて」

(勝)「ポンタさんとか(註3)」

(チャ)「やっぱ一号店が一番印象に残るね。キャバレーの上。ようやったから。あそこは」

(勝)「最初は僕とうちに兄貴が、チャーリーさんのとこのお店(註4)に遊びにいかせてもらって。で、出てもらって」

(チャ)「で、何回かやったんやな」

(勝)「40年位前」

(チャ)「1981年や。うん。俺覚えてる」

(勝)「おれ、まだ高校生」

――ルパンが50年くらい前ですよね?

(チャ)「71年」

(勝)「71年かあ」

(チャ)「49年前。はやいなあ」

(勝)「なんでルパンの話来たんですか?」

(チャ)「その前に、手塚治虫さんの『千夜一夜物語』。あれ、俺ベースやってて、バンドでBGMやってくれへんかてきて。全編やないけど。亡くなった冨田勲さんが(音楽)監督。で、家に行ってよく話した。よく覚えてる……ってそれはええやん。チキンのこと言わな」

(勝)「チャーリーさんも今回70歳の」

(チャ)「倒れそうやわ(笑い)。思い出ってありすぎて。いっしょにやっていた仲間も何人か亡くなっとるしね」

――チキンってどんどん変わっていったじゃないですか?一番思い出にあるのは最初の一号店?

(チャ)「だって下からキャバレーの音が聞こえてくるんだもん。こんなライブハウスあるか」(一同笑い)

――チャーリーさんはずっと神戸ですよね?

(チャ)「私は神戸生まれ神戸育ち」

――前のインタビューで鮎川さんが「チキンジョージはニューウェーブロックの幕開けだった」と、でもチキンジョージは神戸のブルースの拠点でもありましたよね?

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(勝)「最初のイメージって何だったんですかね?」

(チャ)「俺はブルースロックや思てる。ポンタと憲司が来てプログレみたいなやりだして、そやな。やっぱイメージ的には神戸はブルースロックちゃう? 似合う町やし」

(勝)「京都とかはね、学生がいて、そういう発信やったけど」

(チャ)「同じブルースでも神戸、大阪、京都、みな色が違う」

――神戸のブルースってどんなブルースなんですか?

(チャ)「英語で歌えるミュージシャンが多いことかな。おれもSHOもそうやけど。自分でいうのもアレだけど。俺とショウが神戸の音楽シーンをひっぱってきた。二人、ニコイチでやってきたから。9月で二人で50周年迎えたばかり。お客さんも60超えてる」

(勝)「だから僕らが40年やって、チキン40年言うても、まだまだ子供」

(チャ)「それでも日本で古いほうになるんちゃう?」

(勝)「こないだ話してて、チャーリーさんより上の人ってもういてないんちゃうかな。神戸でね」

(チャ)「ロックブルースの人はそうやけどジャズの人はいっぱいおる」

――勝さんのほうからコーセーさんになにか一言ありますか?

(勝)「ずっと一緒にいるし、長いし、先輩というか」

(チャ)「なんもないよな。ただ一つ言えるのは、俺はまだ客呼べる。神戸なら」

――最後にチキンジョージ40周年にコメントをください

(チャ)「よく頑張ったもんよ。自身の後。そんでコロナ。まず生き残ることを考えなあかんわけやから。あったらまたチャンスがあるじゃない」

――コーセーさんもこれからもずっと

(チャ)「声はまだ出るけどね。店はしんどなってきた。ロト7当たったら、やめる」(一同笑い)

(勝)「病気だけはきをつけて」

――お時間になりました。今日は本当にありがとうございました。

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※註1:憲司(大村憲司ギタリスト)
※註2:石田長正(いしだおさむ)ギタリスト
※註3:ポンタ(村上 “ポンタ” 秀一ドラマー)
※註4:コーセーさんのお店(アンクルチャーリー)

インタビュー収録:2020年11月22日(日)「Charlie Kosei 's Happy Koki Live 70」開演前